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房一は立ち上つた。すると、着古しのワイシャツから下はズボンなしの毛むじやらな肥つた円つこい肉のついた脚がによつきりと出た。さつき河の中に入つたときに、ズボン下を脱いでしまつたのだ。
小谷は相手にされなかつたやうに感じてちよつと顔をしかめた。が、しばらくすると又声をかけた。
房一は廻転椅子にそつと腰を下して、もう朝から何度眺めたかしれない診察室の中を見まはした。間もなくその不恰好な体躯がぢつと動かなくなつた。彼が身動きするたびに現れていた一種晴れがましい表情の代りに漠とした思案の線がその顔に現れていた。――この河原町に帰つて開業しようと決心したときにどこからとなくやつて来た考へがある。それは彼が河原町を出ている間にいつとなく薄れていたものだが、思ひ出すたびに徐々に形がはつきりして来た。あの河原町に奥深く流れていて彼を何かしら圧迫していたもの、それは何故か彼に跳ねかへさせたい心持を抱かせ、同時に身体が熱くなるほどの一種盲目な力を駆り立たせるのが常だつた、それらの捲き旋回する目に見えない風のやうなもの。それは幼時からずつと房一の底から動かし、支配しているものだつた。
と、彼は思ひ出したやうに房一の顔をのぞきこんだ。それは、いつか道平を診察しての帰り路で、「あれだね、君は見かけによらない親思ひなんだね!」と叫んだ時とそつくりな感嘆をまじへた親しさといつた色が閃いていた。
「それがね、どうも本妻と妾を二人いつしよだといふ話だが、――なにしろ荒いのでね、二人ともぐうの音も出ないで温和おとなしくしとるらしい。――うん、さうだ。こないだ店へ買物に来た在ざいの者が話して行つたが、その家の前を通るとね、どうも女の泣声らしいものが聞える。それもただの泣き声ぢやない、ヒイヒイいふ、まあ恐いもの見たさでそつとのぞきながら通ると、多分妾の方があんまり痛められるんで逃げ出さうとでもしたらしい、それで片足土間に降りて片手を畳の上についたところを小柄こづかみたいなもので、何のことはない手の甲からズカツと畳まで刺しつけて動けんやうにした。だもんで、女の方はどうにもならんのだね、そこへしやがみこんだまゝヒイツヒイツて泣いとつた。見た男は足がふるへたつていふが、それあ誰でもふるへるだらう」
行列がずつと町外れの立岩のところまで行つて、そこで一休みしてから引返して来た頃には、へたばつた様子は午前のそれよりも一層深刻に現れていた。今は笑はれるのを気にするどころではなかつた。紙製の袍には十分皺がより、おまけに永い間日に照らされたので、そり返つて袖口から中に着こんだ木綿縞を露はし、横腹のあたりが裂け、惨憺たる有様だつた。それにもかゝはらず、疲労のために一隊はかへつて一種の上機嫌を呈していた。それに空はあくまで晴れ、雲切れ一つなく、彼等の歩いている田舎路は右手にきらめく河を見下して、白くはつきりと浮び上り、ふり注ぐ日ざしと温かさで噎むせるほどだつた。誰かが笏を落したと云つては笑ひ、木沓きぐつが割れたと云つては笑ひ、さうなるととめどもないげらげら笑ひが浪のやうにしばらくは一隊を支配した。
「それに、永い間この土地をはなれていたもんですから、土地の事情にもすつかり疎うとくなりましてね、これは一つ、どうしても今後こちらのお力にすがらないことには立つていけないと思つている次第ですが――」
「あれだね、君は見かけによらない――親思ひなんだね!」
徳次は口のあたりをもごもごさせた。
正文はそれきり黙つた。だが、練吉の妻はまだそこに片手をついたまゝ、何か答へを待つやうに老医師の方を向いていた。その眼には何か訴へるやうな非難するやうな色が見えた。正文はふと気づいた。
「ねえ、高間さん。どうもこの追鮎は背中に掛り傷があるんで元気がないですよ」
「いいや、子供は助かった代りに看病かんびょうしたお松が患わずらいついたです。もう死んで十年になるですが、……」
彼は実際に身体を顫はせて見せた。彼の眼にはいつも肩章や、きらきらする指揮刀が眩まばゆく輝いて見え、むんむんする隊列の汗と靴革の匂ひ、町中を行進するときや、町外れの木蔭で見物人にとりまかれて兵卒に演習の想定を説明するときや、それらの晴れがましい空気の思ひ出が、今は日焼けがとれて生白くなつてはいるが、眉の強い、眼の切れ目な、短い鼻髭の生えている彼の稍冷い顔を生き生きとさせるのだつた。恐らく下士官頃の上長に対する習慣からか、彼は今でも無意識のうちに自分を引上げてくれる上長を求めているもののやうであつた。河原町でも、彼は鍵屋の神原文太郎氏のところや大石医院などへよく出入した。徳次が今泉を何となく気に入らないのも、多分さういふことも預つているのだらう。
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