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「あれですよ。半之丞の子と言うのは。」
「ほう。元気だね。ハッパでやられたかね」
練吉はさういふ今泉の足もとを見、更にじろりと皺一つよらない衣裳を見上げた。何か疳にさはつたやうな色が動いた。そして、一言できゆつと相手をへこまさうとする時のやうに、神経的に口を曲げ、今にも云ひ出さうとした時、少し離れたところから手招きしている房一と小谷とに気づいて、そのままそつちへ行つてしまつた。
「今日はえらい早いお帰りだね」
「君は昨日その九州から来た連中を赤山へ案内して行つたちふぢやないか」
房一は早くから競馬を見に行つていた。観覧席で相沢に会つたので挨拶した。訴訟の話を聞いた頃からずつと会はなかつたのである。相沢はあの特長のある黒味のひろがつた目で、やはり馴れ馴れしげにぐつと身体を近寄せて房一を眺め、彼の馬が来ていることを教へた。席が混んでいたので、それきり傍へ寄る機会がなかつた。休憩のとき、葭子張よしずばりの便所へ立つたかへりに、ちやうど相沢が向ふからやつて来るのにぶつかつた。彼はカーキ色の乗馬ズボンに拍車のついた黒革の長靴をはいていた。歩いて来るときに、その拍車が鳴つた。
日は高く上つて、噎むせるやうな温かい空気が、時々、風の工合で河原の方からやつて来た。徳次も切り上げて来た。三箇の魚籠びくを中にして、頭を並べて獲物を見せ合つた。
と、小谷は人差指と中指を二本突き出して見せて、
明いうつとりするやうな午後であつた。房一はトラホーム患者の婆さんに処置をして帰した後で、そこらを片づけ、先づ一服といふところで不断かけ慣れた廻転椅子に腰を下し煙草をくゆらしはじめたものの、それもほんの一吸ひか二吸ひで、そのまゝぼんやりと戸口の方を眺めていた。いや、眺めていたといふのはあたらない。彼は別に何も見ているわけではなかつたから。が、とにかく、彼の目の向いている方には見慣れて、そのために見るといふ感じを起させない、あの高間医院といふ字を裏側から透すかし出した曇り硝子の二枚戸が片寄せになつて、そこに長方形のかつきりした戸口があり、それは宛かも節穴を通して眺める戸外が一種異様に鮮明に見えるのと同じ風に、その戸口からちやうど石畳の露地のやうになつた両側の築地塀と、そこで一所だけ区切られた表の道路、白い路面の輝き、その向ふに高まつた畑だの、そこに今は気早に黄ばんだ葉をつけ、その聞から紅味のさした円つこい実をのぞかせて、ぽつんと一本だけ立つている柿の木、だのいふ物を何となく鮮明に何となく際立つて見せていた。かう云ふと、読者はもう、房一が前にも何度かこゝであの廻転椅子に身をうづめ、眺めるともなく戸口を眺めかがらぼんやり考へごとをしたことがあるのを思ひ出されるだらう。
「おーい。渡つてもいゝかね」
体が、と云ふより声が引つこむと、代りにそこに姿を現したのは盛子だつた。すると、うす暗い台所の板敷の上に眩しいやうな、うすい葉洩れ日のやうな気配けはいが立つた。
と、房一は急いで頼んだ。加藤巡査は一瞬、不安な面持をした。が、房一の態度が決然としていたのと、急策としてはそれより他にないことも明かだつたから、直ちに承諾を与へた。
「どうしたい、君はその恰好をまだ見せたい気かい」
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