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    「それは、せんせいのお考へに任せますわ。――ですが、今日のことは、ほんの内輪の間違ひやさかい、そのことは含んどいてもらはんと困ります。よろしいな。――内輪のことや」

    「それでは」

    徳次はこの往診といふ言葉がさきほど河原で房一の口から聞いた時に突然耳新しく身近かに響いたのを思ひ出しながら、それを口にするのを楽しむやうにつけ加へた。

    実際、練吉の滑つこい気持よくふくらんだ頬には、その時ちらりとした微笑の影がさしていた。

    「私も眠れなくて夜中に一度湯へはいるのですが、なんだか気味が悪るござんしてね。隣の湯へ溪から何かがはいって来るような気がして――」

    だが、どうせ頭を下げるのなら大石医院だけでなく目星めぼしいところをあらかた廻つてやらう、叮寧にやつたところでどつちみち損はないわけだと、この打算力に富んだ若い医師は考へついた。さう決心すると、幼時から彼に巣喰つていて、今では彼の中に強靱な支柱のごときものになつている闘争心のおかげで、房一には自分が頭を下げて歩く姿よりは、河原町の家々を虱しらみつぶしに一つ宛身体をぶつつけて歩く姿の方が眼に浮かんだ位だつた。

    「さあ。どうぞ、どうぞ」

    「いゝえ、なんの。おれんとこへなんか。――あんたは忙しい身だもの」

    「さうなんですよ。まあだ帰らないの」

    と、今やうやく気づいた盛子が叫び声をあげた。

    今度は、徳次も完全にびつくりしてしまつた。彼のきよろりとした眼には、どこか少し先きで火事があると聞いた時のやうに、何だか落ちつかない、興昧ありげな色が浮んでいた。

    小谷の店では実にあらゆる品を売つていたが、その中には僅かだが薬品類もあつた。したがつて、高間医院は小谷にとつて多少のお得意先でもあつた。今では、小谷は心易立てに注文のあつた薬品を「店主自から」ぶらさげて房一の所へ持つて行き、そのまゝ話しこむやうになつている。

    と、その小柄な身体から出るとはとても思へない、幅のある、濁だみ声で云つた。

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