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    こういう不便が多々ある代りに、むかしの温泉宿は病を養うに足るような、安らかな暢のびやかな気分に富んでいた。今の温泉宿は万事が便利である代りに、なんとなくがさついて落着きのない、一夜どまりの旅館式になってしまった。一利一害、まことに已やむを得ないのであろう。

    さう云ひながら一寸横目で自分の膝のわきに据ゑたずつしりと厚味のある榧かやの碁盤を眺めた。

    「いや、私はすぐこの近くで医者をしとる、高間といふ者ですが」

    とてもそんなことは!といふ風に房一は答へた。

    「どうしませう、ほんとうに!すつかり落しておしまひになつたんですのね。――どうも、さつきから様子がちがふと思つていたんですが、道理で!――さうでしたわねえ、お髯がなくなりましたわねえ」

    築堤へ登る段の所で、長い竿を持ち扱ひにくがつて立停つた房一の背後から、盛子はふいに呼んだ。

    房一の態度が穏かだつたので、相手はいくらか落ちついた。

    「あれですかね、やつぱり自分で歩かなくちやいけませんかね」

    「ほんとうに火事があつたのかい」

    「あんたも、おめでたいさうで」

    それが堂本だつた。

    房一の魚籠びくをのぞいて、盛子はびつくりしたやうに叫んだ。

    道中は別に変ったこともなく、根津の主従は箱根の湯本、塔の沢を通り過ぎて、山の中のある温泉宿に草鞋わらじをぬいだ。その宿の名はわかっているが、今も引きつづいて立派に営業を継続しているから、ここには秘しておく。

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