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一息に話してしまふと、喜作は依然としてさつきのまゝの姿勢で、いかにも気持よささうに、あのごつごつした、年に似合はず毛のうすい頭をむき出しに日にさらし乍ら、遠く河下の方に開けた空と、その下に低く横はつている丘陵地に目を放つていた。
「うん、ドイツ兵の捕虜だ」
「いや別に忙しいこともありませんですよ」
「をかしいから笑つたのだ」
「あの訴訟はどうなつたのかね」
「いや、それあ貰つたのが分家だから、相手はやつぱり分家の喜作さんさね」
けれども半之丞は靴屋の払いに不自由したばかりではありません。それから一月とたたないうちに今度はせっかくの腕時計や背広までも売るようになって来ました。ではその金はどうしたかと言えば、前後の分別ふんべつも何もなしにお松につぎこんでしまったのです。が、お松も半之丞に使わせていたばかりではありません。やはり「お」の字のお上かみの話によれば、元来この町の達磨茶屋だるまぢゃやの女は年々夷講えびすこうの晩になると、客をとらずに内輪うちわばかりで三味線しゃみせんを弾ひいたり踊ったりする、その割わり前まえの算段さえ一時はお松には苦しかったそうです。しかし半之丞もお松にはよほど夢中になっていたのでしょう。何しろお松は癇癪かんしゃくを起すと、半之丞の胸むなぐらをとって引きずり倒し、麦酒罎ビールびんで擲なぐりなどもしたものです。けれども半之丞はどう言う目に遇あっても、たいていは却かえって機嫌きげんをとっていました。もっとも前後にたった一度、お松がある別荘番の倅せがれと「お」の字町へ行ったとか聞いた時には別人のように怒おこったそうです。これもあるいは幾分か誇張があるかも知れません。けれども婆ばあさんの話したままを書けば、半之丞は(作者註。田園的でんえんてき嫉妬しっとの表白としてさもあらんとは思わるれども、この間あいだに割愛せざるべからざる数行すうぎょうあり)と言うことです。
今泉は面喰つてこれも徳次の眼の中をのぞきこんだ。二人の間には恐しく判りにくいものが突然はさまつたやうに思はれた。
と、父親の顎のあたりに又目をつけた。
「いや、たいしたことはないだらう、と思ふ。鼻血を出したからね。軽いとは思ふんだがどうも老としよりだから経過しだいでは副次症を起さんともかぎらんしね。そのへんのことが僕にはよく判らないんだ」
房一は暑さのために鼻の頭に汗粒を浮かべて、気のない調子で相槌を打つた。その様子でも判るとほり、彼はさつきからまるで別のことで気をとられていた。
その浴場は非常に広くて真中で二つに仕切られていた。一つは村の共同湯に、一つは旅館の客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである。村の方の湯にはいっているときには、きまって客の湯の方に男女のぽそぽそ話しをする声がきこえる。私はその声のもとを知っていた。それは浴場についている水口で、絶えず清水がほとばしり出ているのである。また男女という想像の由よって来るところもわかっていた。それは溪の上にだるま茶屋があって、そこの女が客と夜更けて湯へやって来ることがありうべきことだったのである。そういうことがわかっていながらやはり変に気になるのである。男女の話声が水口の水の音だとわかっていながら、不可抗的に実体をまとい出す。その実体がまた変に幽霊のような性質のものに思えて来る。いよいよそうなって来ると私はどうでも一度隣の湯を覗のぞいて見てそれを確めないではいられなくなる。それで私はほんとうにそんな人達が来ているときには自分の顔が変な顔をしていないようにその用意をしながら、とりあいの窓のところまで行ってその硝子ガラス戸を開けて見るのである。しかし案の定なんにもいない。
道平はまるで大きな輪がゆつくり廻つていて、その一点の結び目が眼の前に現はれたときにやつと口を開くかのやうであつた。
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