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「どうも、済んまへんでした」
「わたしやア――」
と、道平は云はれた通りに腰を下さうとして、椅子の円々とふくらんだ真新しい天鵞絨びろうどの輝きに目をとめると、しばらくまじまじと眺めていたが、もう腰をかけるのは止めてしまつた。やはりゆつくりした様子で立つている。
「ね、お母あさん。これ、こんなに汚いでせう。もう少し……たいんですけど。……でせうねえ」
さう云ひながらぽんと軽く下腹をたゝいた盛子の巧みな、しなのある手つきが目に浮かんだ。それは、そこだけ切つてとつたやうな鮮かさで残つていた。
それは背広姿に、遠目にもはつきりと判る緑色のソフトをかぶつた男であつた。
「はあ――ふむ、うちへもかね」
「ふむ、トンネルのハッパだな」
徳次は口のあたりをもごもごさせた。
「いや」
「さあ、くはしいことは判りませんね」
「うむ」
正文はそれきり黙つた。だが、練吉の妻はまだそこに片手をついたまゝ、何か答へを待つやうに老医師の方を向いていた。その眼には何か訴へるやうな非難するやうな色が見えた。正文はふと気づいた。
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