貴方の見ているドメインは

ドメイン www.li8festory.info

このページについて

    土手に立つている男は房一には見覚えのない男だつた。神原喜作だと聞いてもすぐには誰だか判らなかつたが、やがて、それが彼の借家している鍵屋の分家の当主で、ふだんはどこかの農学校の教師をしていてめつたに帰つたことのないといふ、あの喜作だと思ひあたつた。それにしても、どうしてこんな所へひよつこり姿を現したものだらうか、冬休ででも帰つて来たのだらうか。――

    かまわないから開けてみろというので、男二、三人が協力して無理に第一の戸をこじ開けると、内には誰もいなかった。第二の戸をあけた結果も同様であった。その騒ぎを聞きつけて、他の客もあつまって来た。宿の者も出て来た。

    ざつと四十人近い客数であつた。その半ばあたりへ来ると、直造は一々前まで行くのを止めて、ふりかへつては「山下さん、お次へどうぞ」と云ふ風に名を呼びはじめた。だが、房一の所へはなかなか来なかつた。大部分の客が席に居並んだ頃になつて、房一は漸く自分を呼ぶ直造の稍しやがれた声を聞いた。

    たとい健康の人間でも、往復の長い時間をかんがえると、一泊や二泊で引揚げて来ては、わざわざ行った甲斐かいがないということにもなるから、少くも四、五日や一週間は滞在するのが普通であった。

    「怪我人ができたのかね」

    だから、房一にしてみればわざわざ小面倒なところへ乗りこんで行つたやうなものである。それだけに房一は事前に大体の目算をつけていた。彼の計算によれば、彼の生家のある河場一帯はむろん彼の地盤に入るとして、河原町の川向ふは今まで何かにつけて町側に押されていたから自然その半ばは自分に着くと思はれた。その他の所、町場と近在については、この地域での大石医院の勢力は抜くべからざるものだし、又若しこれを強ひて侵さうとしたらそれはかへつて自分の身の破滅を来すやうなものだとは彼にも一目瞭然であつた。ただ近在だけは時日が経つうちには彼の腕次第で少なからぬ患者をひきつけることができさうに思はれた。だが、急せいてはいけない。それに、彼が社会的にも医師としても大石医院の後進であることは紛れもないことだつた。よし、こつちからうんと頭を下げて行つてやらう、仕事はそれからだ、と房一は強く胸の中で呟つぶやいた。

    この「芋の子」は小学校を卒業するとすぐ畑へ追ひやられる筈であつたが、成績がよかつたのと彼の願ひによつて高等科に上ることになつた。その二年の間に彼は身体も心もめつきりと成長した。年齢の若さから来る皮膚の艶や筋肉の柔かさは争へなかつたが、骨格は骨太でがつちりしていた。彼の粗暴さが今はすつかり姿を消して反対に或る素直で従順な所が出て来ていたので、彼の骨格の逞ましさが何となく滑稽な愛嬌のあるものにさへ見えた。しかし彼の額には年に似合はない一本の深い皺が出来ていた。それは時々非常に深く黒く見えることがあつた。それを見ると、人は彼の中に案外な考へ深さのあるのを認めて驚くのであつた。

    が、或る日切つて落したやうに、例外だといふ風に、一日だけ何だか季節がためらつたやうに暑くも涼しくもない日があつたかと思ふと、次にはあの初秋の前触れである強い南風が吹いた。それは暑いといふよりは何だか蒸むし蒸むしする、騒々しい、遠く起つたかと思ふとすぐ間近かにやつて来、草木をなびかせ、捲き、吹きつけ、魂をゆすぶるやうな大きな小止みのない風だつた。それは風と云ふよりは何か素晴しく太いものを感じさせる大きな物音だつた。まさにその通り、はじめは笹鳴りをさせ、立木の枝を唸うならせ、戸をがたつかせ、埃を広い幅で駆けさせていたものが、しまひにはそれらをたゞ下界の騒々しさといふ中に押しこんでしまひ、圧おさへつけ、自分ははるか中空をもつと高い方を何ものにも遮さまたげられることなく悠々と巨大に傍若無人に吹き抜けて行くのであつた。それは風ではなく季節の通り過ぎる音だつた。やがて雨を伴ひ、あらゆる物の上にたゝきつけ、浸みこませ、溢れさせ、一日か二日でけろりとし、青い空をのぞかせ、それでもなほ切れ切れの雲を、疾はやい怪物のやうな想像しきれぬ形の雲をひつきりなく走らせて、おれはまだ完全に通り抜けてはいないぞ、気をつけろ、と知らせているやうに見えた。

    「さう、カワラケ、カワラケ云ひなさんな」

    相手はしばらく黙つていた。だが、場所が高いのと、柵の中にいるためか、落ちついて答へた。

    すると、道平の半ばひきつゝた表情の中には、又あの悦ばしさが、かうして歩いて来たことを人に見られるといふ満足が、ゆつくりと、何だか紙のずれるやうな工合に上つて行つた。

    さう云ふと、男は入口に待つていた印袢纏の背の高い男とつれ立つて、高間医院を出て行つた。

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40