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身体を拭きにかゝつていると、台所の土間の方で、誰か来たらしい、盛子に向つてしきりと何か云つている声が耳に入つた。それは、せきこんだ、悲しげな、訴へるやうな女の声だつた。
「ジョン、そら!ウシ!」
と、盛子は声をかけて、その方へ向いて近づきながら、だが、そこに房一とは違ふ男の顔がうす暗がりの中で何だかためらひ気味に、中へ入りもしないで口をもごもごさせて突立つているのを見た。が、その顔は急に突拍子もない大きな声を出した。
「さうかね、梨地へ行くんなら、やつぱりこゝを渡つた方が近道だ。井出下の渡しはもうないからね」
不案内なまゝに漠然と店土間の方へ向けて中庭を入つて行つた房一は、右手の塀の内側に一頭の馬がつながれているのを見て思はず足をとめた。一瞥した瞬間場所柄荷馬車馬でもいるのかと思つたのだが、よく見ると、それは鮮かな染色の黄羅紗の掛布の上にぴかぴかする乗馬用の革鞍が置いてあり、おまけに鹿毛の首筋から両脚にかけて汗が黒くしみ出ているところを見ては馬はたつた今さつきまでかなり駆けさせられたものらしい、四脚は軽くひきしまり、下腹部が小気味よく切れ上つて、胸の深いところだけでも、この辺には珍しい良い馬であることが判つた。房一はすぐ、こんな片田舎で誰がかういふ馬を乗り廻しているのだらうかと思つた。陸軍の演習でもなければこんなものが民家につながれていることはなかつた。それとも物好きな旅行者でもあつたのだらうか。
一度房一は家中の眼をぬすんで一人で馬を引き出したことがある。彼は馬小屋の壁の横木によぢ登つてそこから馬に乗らうとしたが届かなかつた。考へた末に木箱を幾つか探して集めてそれを段々に積み重ね、その上から馬の背に渡らうと試みた。それはうまく成功した。馬は彼にとびつかれて始めは驚いて二三度首を振つたが、彼が次兄の日頃やる通りの真似をして落ちついて、短い足で何度か蹴ると、馬は思ひ出したやうに足を踏み出した。
これは怪談どころか、一種の美談であるが、その事情をなんにも知らないで、暗い風呂場で突然こんな人物に出逢っては、さすがの柳沢権太夫もぎょっとしたに相違ない。元来、温泉は病人の入浴するところで、そのなかには右のごとき畸形や異形の人もまじっていたであろうから、それを誤り伝えて種々の怪談を生み出した例も少くないであろう。
「やあ。――こちらへ」
練吉は今更のやうに、あらためて房一の様子を、その新調の自転車や医者らしい鞄などに目をやつた。すると、それらは今新しく練吉の前に彼の持物と同じものを感じさせ、更に、今まで耳にしていたものの、つひぞ気にもとめずにいた医師高間房一といふ人物がそこに忽然と姿を現しているのをいやでも見なければならぬと感じさせた。それは何故かどこかで練吉の自負心を傷つけ気を苛立たせるものだつた。
ゆつくりと時間をかけて、楽しみ楽しみ喰べた。それは喰物のおいしさよりも、かうやつて小娘のやうな真似をするのがおいしかつたのだつた。
房一は擽くすぐつたさうな顔をしていた。
「どういたしまして。お茶位さし上げんと」
「なにしろ、迷ふんだな」
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