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「一昨年の水で流れちやつたからそのまゝになつてるね――ずつと下にはあるが、さあ、そこへ廻ると半路はんみち以上ちがふかな」
その「含有量」といふ言葉は富田が昨日聞き覚えたばかりのものだつた。
「やあ、しばらくで」
「ほう、この家鴨あひるの嘴みたやうな金具は、こりや何かな。ほう、こりやよく光る小刀だな。こんなに何本も何に使ふのかな」
と、舌ざはりの悪いものでも口にしたやうな調子で、練吉はぽつんと云つた。
しばらく行くと、ちやうど河原町の中ほどにあたる所で家並みがかなり長い間途切れていた。まはりは田圃たんぼだけの、そこで今までまつすぐに来た道路は斜めに屈折して、二つの直線をなす上の町と下の町との喰ひちがひをつないでいた。上の町のとつつきはやはりはつきり曲つているので、その端にある雑貨店の前面が殆ど突きあたりに見えた。それは横手の壁が白く快げに厚く塗られて、その上に青黒い漆喰しつくひで屋号を浮き出させた、かなり大きな裕福さうな家だつた。房一がその方に向つて歩きながら何気なく見ると、一人の男がその家の前に立つているのが目に入つた。たつた今何となく家の中から出て来たらしくいかにも用がなげにあたりを見まはしていたその男は、近づいて来る房一の姿に気づくと大袈裟に手を額にかざして日をよけながらぢろぢろと眺めはじめた。それはまるで、この道路が彼の私有物で、そこを案内もなしに闖入ちんにふして来る見ず知らずの男を咎めにかゝつてでもいるかのやうであつた。
午近くなつて空気は温められてどんどん上昇し、どこも冴えてきらめき、何か軽い気を遠くさせるやうな気配は、あのひつきりないざわめきによつてよけい強くなつた。誰も彼も上気し、家の中に落ちついてはいられなかつた。盛子は長い小豆色のぼかしのある羽織の下に、ふくらみのある身体を巧みに隠し、河場からやつて来た義母と並んで戸口に立つて通りを眺めていた。今さつき山車だしがそこを通つたばかりであつた。山車の屋上では狐忠信の人形が黒い眉を上げ、口をへの字に曲げ、腕を構へて造花の中に立ちながら、揺れて思ひがけない風に頭を振り、提灯と小旗の下を過ぎて行つた。と思ふと、そこの曲り角のあたりで拍子木の音が起り、山車はとまつて、乗つていた踊り子が山車についた舞台の上で扇をかざし、きつかけを外して囃はやし方かたをかへりみて恥しげに笑ひ、あらためて又とんと板を踏み鳴らし、何かの踊りをはじめるのが見えた。間もなくそれも遠くへ行つてしまつたが、人はざわざわ行つたり来たりしていた。そこらでも、こゝらでも、遠くでも、絶えずどよめきの音が聞えていた。
「はあ、いや。もう手前どもは老いぼれ同然ですからな」
かういふ目には、あの鬼倉との一件の後でも、多少会つていた。だが、その時も今も、房一は同じやうに何か尻ごみするやうな当惑に近い表情を浮かべ、なるべくその話から逃げるやうにしていた。その表情は、盛子の妊娠のときや道平の病気に際して現れたものに似て、何となく滑稽なところさへあつた。鬼倉の一件も、営林署の消防演習のことも、開業のはじめに彼が空想していたところのもの、あの町の人の心をしつかりと捉み、信頼させるといつた野心の点から云へば、巧まずしてその効果を果すものだと見做していゝ筈であつた。事実、さういふ様子は町の人の態度にはつきりと現れていた。あんなに大勢の人の目前で行はれたことであるのにかゝはらず、出張所で最初に口火を切つたのが神原喜作ではなくて房一であり、解決したのも房一だといふ風評さへ立つていたのである。無責任でもある代りに、どこか一脈の根柢あるかういふ風評は、今何となく房一を漠然と押し立てる方に働いている観があつた。ところが、どういふものか、房一はそれを避ける様子を示したばかりでなく、一種嫌悪の面持を見せた。
一わたり済むと、練吉は最後にもう一度注意深く病人の顔をぢつと眺め、
病人は十七になる相沢の一人息子で、県庁のある市の中学寄宿生だつたが、軽い肋膜炎でかなり前から家でぶらぶらしているといふことは、昨夜来た使ひの者から聞いていた。
「なに?」
たしかに、「家」に関するかぎり、正文老夫婦が口を利くべきだつた。おかげで、練吉はかういふことにつきもののいざこざの矢面に立たなくてもいゝわけであつた。それから、どうなつたにしても練吉自身の責任は免れるといふものだつた。――「まさに、おれはこの年になつても子供だ。子供は親の云ふことを聞くものだ」と、練吉はいくらか小狡こずるく又いくらか皮肉げに傍観していた。
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