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房一はあの騒ぎの晩、土手に駆け上つた瞬間高張提灯の明りで見合つた喜作の、禅坊主めいた精悍な顔が、その後度々会つたにもかゝはらず、妙にその時の顔だけがいつまでも印象に残つていた。
「もはやお膳も据ゑていたゞきましたし、これで十分頂戴いたしたも同然でありますから、甚だ失礼ながらお先きに御免を蒙ります」
「あんたも、おめでたいさうで」
彼女はその表情を少しもくづさずにすつと引き下つたが、間もなく帰ると、
「一昨年の水で流れちやつたからそのまゝになつてるね――ずつと下にはあるが、さあ、そこへ廻ると半路はんみち以上ちがふかな」
しかし、正文は自分が練吉のこねまはす泥の中に足をとられているなどとはつひぞ思ひもしなかつた。外面的に折目立つたことの好きな正文には、どうにかうはべの恰好さへつけば安心するのである。練吉が男の子を一人抱へていつまでも独身では心許こゝろもとなかつた。だが、手を焼いている。そのうち、練吉は自分の気に入つた女を見つけた。今度は息子が好きで選んだからよからうと、正文はすぐに事を運んだ。それが茂子である。
「やっぱりチブスで?」
人に話しかけるときにも半分はきまつて独り言のやうになつてしまふ義母はどうもつれ合ひの道平の癖が丸うつりになつたものらしい。だが、道平の声音こわねはあまり響かないぽつりぽつり石ころを並べるやうな調子だつたのにひきかへ、この義母のは突拍子もなく起つて又駆足で空の向ふに消えてゆくやうな大声だつた。
房一は何もかも忘れていた。日頃の思案深げな額の皺はいつそう強く刻まれていたが、それは却つて或る夢中な輝きを示していた。彼は何ものかに捕へられていた。何かが胸の奥深くでよびさまされているやうであつた。首筋に焼けつく日の暑さ、水流のきらめきや、絶えず水に濡れて黒く光つている沈み岩の頭、滲み出る汗と共に何かしら揉まれしぼり出される身内の或る物――それらは彼の幼時の記憶に確しつかりと結びついて、その頃の漠とした幸福感を近々と思ひ出させた。
「うん。青島陥落の、ほら、旅団長閣下だよ」
と、房一は帽子を手にやつた。
「ところがね、大石さんの銃は、あれはマネスターと云ひましたかね、あのマネスターは立派なんだけどなあ。そのわりにあたらないもんですね」
御大典とそれにつゞく奉祝日は瞬またゝくまに過ぎ去つた。
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