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「何でもいゝから早くしてくれ。路をまちがへて大廻りしちやつたんだ」
「さうか、惜しかつたな」
今頃になつて、男はさう訊き、盛子がそれに答へる前に、ひとりでうなづいていた。
橋本屋といふのは下手にある、こゝらで唯一つきりの小料理屋だつた。夕方、そこで近在の馬喰ばくらうが二人のんでいた。徳次がそれに加つた。大分酔がまはつた頃、一人の男が黙つて入つて来た。それはゴマ塩頭の薄いメリヤスシャツの上に夏背広をぢかに着こみ、巻ゲートルに短靴をはいた、初老に近い痩せ身の男だつた。
「ふむ、ふむ」
房一は急いで膿盆をひきよせた。
そんな風におぼえていてくれるとは思ひがけなかつた。
「挨拶みたやうなことはもうしたかの」
「今日からお隣へ参りましたから、よろしく願います。」
「さう、知つてる、知つてる」
「よし。――さうしとかう」
心中もその宿を出て、近所の海岸から入水するか、山や森へ入り込んで劇薬自殺を企てるたぐいは、旅館に迷惑をあたえる程度も比較的に軽いが、自分たちの座敷を最後の舞台に使用されると、旅館は少からぬ迷惑を蒙こうむることになる。
ところが、何の気なしにいつものきよろんとした目つきでその方を眺めていた徳次の顔には、その時不意打を喰つたやうな表情が浮かんだ。彼は緊張して眺め、さつと顔を紅らめ、力りきんだやうになり、それから急に下こゞみになつて水洗ひの仕事にかゝつたが、明かに上の空だつた。彼は始終落ちつきなく対岸の路を眺めやつた。そしてやはり、紅らんだり力んだりした。
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