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それは初めて口に出す言葉だつた。
「途中から――?」
わたしが隣座敷へ夜中に再三出入したことを、どうしてか宿の者に覚られたらしい。その翌日は座敷の畳換えをするという口実の下に、わたしはここと全く没交渉の下座敷へ移されてしまった。何か詰まらないことをいい触らされては困ると思ったのであろう。しかし女中たちは私にむかって何にもいわなかった。私もいわなかった。
「やあ」
そこに、房一は、酒のために紅くなつてはいるが、そして、まだ額のあたりに筋張つた色が立つてはいるが、稍やゝ前こゞみになつた半白の頭を見た。それは河原町の人などには見られぬ線の粗あらさとどぎつさこそあつたが、想像したよりもはるかに老人だつた。
膳が運ばれるまでの間、皆は行儀よく坐つておたがひに向ひ合つた顔を見くらべていた。それは改まつた、殆ど無表情に近い顔ばかりだつた。だが、さりげなく見合ふことだけは止めなかつた。その中で、房一は特に皆の注意を引いた。その無骨な容貌だけでも目立つのに、殊に彼は今夜の席では殆ど唯一と云つてもいゝ新顔だつた。彼等は今更のやうに気づいた、はるか下座の方に何となく場慣れのしない様子で坐つているのは、近頃医者になつて帰つて来たといふ噂のあつた高間の三男坊だといふことを、そこに団栗どんぐりのやうに何かむくむくした男を見た。
房一は無意識に微笑しながらその眼を迎へた。正文はそこに、医者といふよりはまだ世間慣れのしない弁護士のやうな男が、土饅頭を思はせるやうな円まつちい顔を一種恭々うやうやしげな面持でかしこまつているのを、その厚いふくれた唇が不器用な微笑を浮べているのを見た。それは何となく可笑をかしみのあるものだつた。
彼の妻の茂子は昨日実家へ帰つたばかりで、この家にはいないのである。
何となく身体が倦だるかつた。それにちがひはない、今日は珍しく朝早くから川につききりで、おまけに呼びもどされるとすぐ今の騒ぎだつた。埃で黄くなつた頭髪、泥と血の塊り、男の不安げな眼、それからあのいくらか仁義を切るやうな半シャツの甥の身構へだの、それらがもう一度頭の中に蘇よみがへり、一列になつて通つて行つた。
正文は練吉を附属病院から引かせて家へ連れもどつた。そして、大急ぎで第二の嫁を迎へた。多分、流石さすがに親に迷惑をかけ過ぎたと気づいたのだらう、練吉は温和おとなしく帰国することにも同意したし、何もかも親任せだといふ態度を見せた。見合ひのために、正文夫婦とつれ立つて隣県の市へ赴おもむきもした。ところが、結婚式が済んで十日もたゝぬうちに、練吉は二度目の妻がどうしても嫌だと云ひ出した。そして、頻々と家を明けた。近くの町の料理屋で流連いつゞけするのである。正文は激怒した。だが正文が恰好をつけるに急で、慌てて結婚の話を進めたと同様に、相手の方でも何か過失があつて結婚を急いでいたらしい。そして、この嫁もあまり出来はよくないらしく、正文の家の悪口を手紙に書いて実家に出した。たまたまその一通を練吉に托したところから、中味がばれ、正文は直ちに彼女を実家へ帰した。しかし結局は練吉の云ふなりになつた形である。
ところが驚いたことにはこの男は、房一があらゆる初対面でやる鹿爪らしい挨拶の文句を今やはじめようとしたときに、いきなり前に立ちはだかるやうに、と云ふより、殆ど気づまりのするほど真正面に近々と顔をよせて、おまけに露骨に房一の顔を見入りながら、
「まだ?ふん!よせ、よせ。阿呆らしい」
庄谷はあの冷笑するやうな白眼で、物好に訊きたがる人に答へた。
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